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「進工舍」とは
1970年に“点鬼簿”入りした舎主の実父が、生前経営していた家業の屋号。
戦前につくられた木造二階建て家屋を改装して、50年代前半に創業。事業の最盛期には、本業とはまったく無縁の、名も無き「アナキスト」の活動拠点としても、多くの人間が出入りしていた。 両親没後は、曲折をへて住む人もないまま放置されていたが、今世紀に入って解体・撤去されついに消失。 このブログは、今はないこの舎(やど)を通り過ぎた人びとを偲びつつ、「新たなアナキズム」の可能性について、極私的につづるもの。 (なお、「舎」ではなく「舍」が正式名称) (最新記事の表示は、ページトップのブログタイトルをクリック) ・進工舍・別館もあります。 ・ana_gon(進工舍の次男坊)(舎主のツイッター) ◇舎主おすすめのサイト ・アナキズムFAQ ・アナキズム図書室 幸徳・大杉・啄木 etc. ・「父」 金子文子 『何が私をこうさせたか』(部分) 青空文庫 ・朴烈義士記念館 朴烈とその妻・金子文子を顕彰する韓国の施設(ハングル表記) ・アナキズム文献センター ・竹中英太郎記念館 「英太郎と労」父子の個人資料館 ・リベラル21 ・声なき声の会 ・マガジン9 ・九条の会 ・侵攻社の少年 カテゴリ
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・金子ふみ子 『獄中手記 何が私をこうさせたか』 (春秋社) 増補新装版 2005-07
金子文子は、その運命のパートナー・朴烈とめぐり合う直前の心境を、手記にこう書いている。 一切の望みに燃えた私は、苦学をして偉い人間になるのを唯一の目標としていた。が、私は今、はっきりとわかった。今の世では、苦学なんかして偉い人間になれる筈はないということを。いや、そればかりではない。謂うところの偉い人間なんてほどくだらないものはないという事を。人々から偉いといわれる事に何の値打があろう。私は人のために生きているのではない。私は私自身の真の満足と自由とを得なければならないのではないか。私は私自身でなければならぬ。正確にいうなら、文子の元恋人だった朝鮮人青年の友人のところで、「犬コロ」と題する朴烈の書いた詩を偶然目にする頃。自暴自棄になりそうな心を、かろうじて制していた時期だろうか。 社会の最底辺で、過酷な労働に心身をすり減らしつつ、苦学しながら将来を夢見ていた文子。だが、現実社会のあまりの理不尽さに、そのころ知り合った「新山初代」を通して触れたニーチェやスチルネル(シュティルナー)の影響もあってか、少しずつニヒリズムに傾いていった。 この頃から私には、社会というものが次第にわかりかけて来た。今までは薄いヴェールに包まれていた世の相(すがた)がだんだんはっきりと見えるようになった。私のような貧乏人が何(ど)うしても勉強も出来なければ偉くもなれない理由もわかって来た。富めるものが益々富み、権力あるものが何でも出来るという理由もわかって来た。そしてそれ故にまた、社会主義の説くところにも正当な理由のあるのを知った。文子が獄中でこの長編手記を書き了えたのは、1926年の始めごろ。大逆罪で死刑判決を受ける(3月25日)直前だろうか。 ロシア革命(1917年)以後10年足らずの時点で、満足な教育も受けることのなかったわずか20歳余りの女性が、その後の社会主義政権の行く末を正確に見据えていたともいえる。そしてまた、彼女のこの指摘は、曲がりなりにも民主主義という体制を整えた現代社会にあっても、国家(権力を持つもの)との緊張関係に、一方の当事者である民衆が思いを巡らすときのよすがともなるものだろう。 前段の引用とは異なり、ここで文子は、繰り返し「私達」「私達自身」と述べていて、運動においては、自律的な生き方だけでなく、同志との連帯を強く意識していたこともうかがえる。 自分自身の真の仕事を探し求めていた文子は、朴烈との邂逅を果たしたものの、運命の暗い罠に吸い寄せられるように、未曾有の震災と騒擾とに遭遇し、結果的に、天皇制国家によってその未来の可能性の芽まで摘み取られてしまった。 今にして思えば、文子は、生まれてくるのがあまりに早過ぎたといえようか。 その思想の先見性が理解されるのは、むしろ、これからなのかもしれない。 「散らす風散る櫻花ともどもに 潔く吹け 潔く散れ」 (文子・獄中歌)
by dra-wkw
| 2009-03-17 23:51
| アナキズム
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