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「進工舍」とは
1970年に“点鬼簿”入りした舎主の実父が、生前経営していた家業の屋号。
戦前につくられた木造二階建て家屋を改装して、50年代前半に創業。事業の最盛期には、本業とはまったく無縁の、名も無き「アナキスト」の活動拠点としても、多くの人間が出入りしていた。 両親没後は、曲折をへて住む人もないまま放置されていたが、今世紀に入って解体・撤去されついに消失。 このブログは、今はないこの舎(やど)を通り過ぎた人びとを偲びつつ、「新たなアナキズム」の可能性について、極私的につづるもの。 (なお、「舎」ではなく「舍」が正式名称) (最新記事の表示は、ページトップのブログタイトルをクリック) ・進工舍・別館もあります。 ・ana_gon(進工舍の次男坊)(舎主のツイッター) ◇舎主おすすめのサイト ・アナキズムFAQ ・アナキズム図書室 幸徳・大杉・啄木 etc. ・「父」 金子文子 『何が私をこうさせたか』(部分) 青空文庫 ・朴烈義士記念館 朴烈とその妻・金子文子を顕彰する韓国の施設(ハングル表記) ・アナキズム文献センター ・竹中英太郎記念館 「英太郎と労」父子の個人資料館 ・リベラル21 ・声なき声の会 ・マガジン9 ・九条の会 ・侵攻社の少年 カテゴリ
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金子文子研究者・山田昭次氏の、『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房・1996年:写真右)には、資料として、文子の遺した手紙が多数収められている。なかでも、関東大震災の起こる二ヵ月ほど前の梅雨の時期(1923年6月下旬頃か)に、朝鮮在留時代に通っていた現地小学校の恩師「服部富枝」に宛てて書き送ったという書簡がとても印象的だ。
それは、思いがけず舞い込んだ恩師からの消息状に対するかなり長めの返信文で(所載の資料は書簡全文ではないが)、懐かしさとうれしさに涙しつつ、その頃の文子が抱いていた心情を、切々と吐露したもの。 服部には、朴烈と発行していた自分たちの機関誌を、その少し前に送ってあったようだ。 只今町から帰って、玄関に無造作に投げ込まれてあった葉書を読んで玄関に伏して声をあげて泣きました。私は早や二十一になりますが、今迄にこれ程に温かい、慈愛のある便りを親からも誰からも戴いたことはありません。私は何か会ひ得べからざるものに会った様な気がします。斯う書いてゐる間にも涙があふれ出ます。感情豊かな文子らしく、思い入れにあふれた文面からは、文学的才能の片鱗も窺い知れる。そして、このすぐ後には、「或小説家の取計ひで、只今自分の自伝を書いて居ります。九月か十月にさる婦人雑誌に掲載出来る筈ですから、さうしたら是非御読みになって下さいまし。」と、続けている。 文子が、最終的には獄中で書き上げた自伝・手記。だが、この書簡が実際に文子の手によるものであるなら、この時点ですでに執筆は始められていて、かなり筆も進んでいたことになる。 「或小説家」というのが誰かはわからない。そのころ交際の深かった「中西伊之助」なのか。それとも時折資金カンパをねだっていた「有島武郎」だろうか。いずれにしても、まさにその執筆のさなか・かの大震災に遭遇し、その直後、朴烈と共に拘束され、予審判事・立松の取調べとも関係したさまざまな曲折を経て、囚われの身の中で完成させたわけだ。 判決の時を目前にしてようやく書き了えた文子は、まえがきに相当する「手記の初めに」の最後に、こう記している。 この手記が、裁判に何らかの参考になったかどうだかを私は知らない。しかし裁判も済んだ今日、判事にはもう用のないものでなければならぬ。そこで私は、判事に頼んでこの手記を宅下げしてもらうことにした。私はこれを私の同志〔とも〕に贈る。一つには私についてもっと深く知ってもらいたいからでもあるし、一つには、同志にしてもし有用だと考えるなら、これを本にして出版してほしいと思ったからである。この手記の執筆と、時を同じくして続けられていたのが、立松判事との訊問“対決”だった。手記には表現しえなかった文子の思想が、そのまま赤裸々に開陳されているのが、裁判から50年以上経ってようやく明らかとなった訊問調書だ(黒色戦線社 or みすず書房刊)。手記の抑制的な記述から受ける印象とは、かなり趣の異なるストレートな文子の姿が、この記録からは垣間見える。 昼の法廷では、激烈ともいえる論述で判事とわたり合い、獄に戻ってからは、暗い電灯の下で原稿執筆に余念のなかった文子。彼女を知る多くの人びとが、頭の良さは「天才的だった」と称えるわけは、手記とこの記録をあわせ読むことで実感し、納得できる。 その意味でも、文子の没後80年を期して2006年に〈梨の木舎〉から出版された、鈴木裕子・編 『金子文子 わたしはわたし自身を生きる』 は、手記・調書・歌集・年譜がひとまとめに編集されていて、とても役に立つ本。 ただ、惜しむらくは手記部分が全体の4分の3ほどの“抄録”となっていること。幼年時代の記述がそっくり省かれているのは非常に残念で、書物としての完成度を削いでいるとも思う。初版本の版元である〈春秋社〉に遠慮でもしたのかしら。 もし改訂を考えることがあるなら、手記全文の収録を切望しておきたい。それと、カバーにある文子の写真は、大審院判決の日の朝に撮られたもののようだが、事実はどうなのだろうか? (その後、カバー写真が差し替えられ、手記も全文収録の増補新版が刊行された。⇒cf.) ともあれ、裁判での文子の発言が現代文で読めるというのは、貴重なことに違いはない。 歴史に「IF」を持ち出すのは愚かなことだが、それでも震災さえ起きていなかったら、文子の自伝は(獄外でならば)どのように書かれ、それが世にどう受け止められ、そして、その後の彼女の人生にはどんな未来が待っていただろうか、との想いは禁じえない。あるいは反面、二年半もの間「未決勾留」という外界と隔絶された極限状況に置かれていたがゆえに、若い文子の思考はより研ぎ澄まされ、その思想も大いなる成長を遂げて、この稀有な書が結実したといえるかもしれない。あまりに悲しすぎる想念ではあるが…。 「ペン執れば今更のごと胸に迫る 我が来し方のかなしみのかずかず」 「自〔し〕が指をみつめてありぬ小半時 鉄格子外に冬の雨降る」 (文子・吟)
by dra-wkw
| 2009-05-12 23:20
| 読書
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