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「進工舍」とは
1970年に“点鬼簿”入りした舎主の実父が、生前経営していた家業の屋号。
戦前につくられた木造二階建て家屋を改装して、50年代前半に創業。事業の最盛期には、本業とはまったく無縁の、名も無き「アナキスト」の活動拠点としても、多くの人間が出入りしていた。 両親没後は、曲折をへて住む人もないまま放置されていたが、今世紀に入って解体・撤去されついに消失。 このブログは、今はないこの舎(やど)を通り過ぎた人びとを偲びつつ、「新たなアナキズム」の可能性について、極私的につづるもの。 (なお、「舎」ではなく「舍」が正式名称) (最新記事の表示は、ページトップのブログタイトルをクリック) ・進工舍・別館もあります。 ・ana_gon(進工舍の次男坊)(舎主のツイッター) ◇舎主おすすめのサイト ・アナキズムFAQ ・アナキズム図書室 幸徳・大杉・啄木 etc. ・「父」 金子文子 『何が私をこうさせたか』(部分) 青空文庫 ・朴烈義士記念館 朴烈とその妻・金子文子を顕彰する韓国の施設(ハングル表記) ・アナキズム文献センター ・竹中英太郎記念館 「英太郎と労」父子の個人資料館 ・リベラル21 ・声なき声の会 ・マガジン9 ・九条の会 ・侵攻社の少年 カテゴリ
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前回、5月10日に投稿した記事は、1977年11月に毎日新聞社から出版された、『世界史の中の 1億人の昭和史 ①』にある「朴烈・文子事件」を取り上げた。
その本に載っている写真がこれ(右)で、キャプションには「……鈴木文治の選挙応援の際 大阪で」とある(画像はクリックすれば拡大)。 そしてこの記述を受けて、かの文子ならばさもありなん、となにげなく書いた。 この、文子の肖像とされる写真は、「梨の木舎」発行・鈴木裕子編の単行本(旧版)カバーにも使われていて、比較的よく目にするもの。金子文子の顔写真は、数は少ないが公になっているものがいくつかある。ネット上でも、名前で検索すればあちこちでヒットする。手許にある黒色戦線社発行の『獄窓に想ふ 金子ふみ子全歌集』(復刻版)にも、不鮮明ではあるが何種類か掲載されている。 右写真の左ページにある、朴烈とのツーショット写真が、いわゆる「怪写真」。右ページ下のものには、「金子(朴)文子」と書かれているが、朴と知りあって以降に写したものかどうかはわからない。 もうひとつ。これもいつの頃かは不明だが、四谷警察署内で撮られたという一枚(森まゆみ著『海はあなたの道』〔PHP刊〕から)。 やはり毎日新聞社発行の『1億人の昭和史 ⑪』(1976年3月刊:先の本とは別シリーズ)に所載のもの。 どれをとっても、すべてが同一人物を撮影したものとは思えないほど、それぞれの写真のかもし出す印象は一定しない。特に、最初に取り上げた大阪での一枚というのは、端正な身なりといい、大人びた表情といい、四谷署でのスナップと比較するなら、同じ女性を写したものとするにはかなりの違和感がある。これまで私は、大審院での判決の日に撮られたものと考えていて、その際の強い緊張感が表情に出ているせいと思ってきたのだが、これが、震災よりかなり前に、つまり検束される以前に大阪で写されたものとすると、やはり大いに疑問はふくらむと言わざるをえない。 ⇒(別館参照) 文子がほんとうに鈴木文治の選挙応援のため大阪まで出向いていたというなら、それはいつの、どんな選挙のためなのか。日本の労働運動のパイオニアの一人と目される鈴木と、“アナキスト・文子”との関係性はいかん…。 ――なんだかオモシロくなってきた。 そうしてあれこれ文献をあさっていて出合ったのがこの本。ここに載っている一枚の新聞写真が、あっさりとすべてを教えてくれた。 ◆吉田千代 『評伝 鈴木文治 民主的労使関係をめざして』(日本経済評論社)1988 「政界への進出」と題された、第七章の扉ページ(p.219)に配されている一枚の集合写真に目を奪われる。そこに添えられたキャプションには、こうあったのだ。 応援演説の三婦人 戦機いよいよ熟す――鈴木候補応援演説のため十一日来阪の東京労働婦人同盟の三婦人(向って右から後藤しづえ、金子ふみ、文治氏、鈴木氏令妹、砂塚よし子の諸氏――きのふ浮田旅館にて) 写真の左には、著者によっても説明が加えられている。 鈴木候補応援のため大阪に来た東京労働婦人同盟の三婦人と共に。右から後藤しづえ、金子ふみ、鈴木文治、妹きぬ、砂原〔ママ〕よし子(大阪毎日新聞昭和三年二月一二日) ページを繰って本文を読み進めていくと、確かにこう書かれている。 東京からは各派を応援する婦人運動家たちも来阪した。労農候補には関東婦人同盟の小見山富枝、日労関西本部には全国婦人同盟の織本貞代と菊川静子がやってきた。そして、総同盟系の婦人連盟からは後藤静枝、砂原良子、金子文子の三人が二月一一日に大阪に乗り込んだ。彼女たちは、「若し鈴木さんが落ちるようなことがあったら二度と大阪の地をふまないつもりです(『大阪朝日新聞』昭和3年2月12日)」と意気ごんだ。この書に述べられている金子文子(金子ふみ)に関する部分はこれだけだ。 友愛会の創始者である鈴木文治は、昭和3(1928)年2月20日投票の第一回普通選挙に、無産政党・社民(社会民衆)党候補として、大阪四区(定数4)から出馬。これには吉野作造も推薦の辞を寄せている。そして、鈴木は19,667票を得てトップ当選を果たす。新聞の日付を確認するまでもなく、これはその時の、鈴木陣営の運動の様子を取材した記事なのだ。 この写真を拡大してもう一度見てみると、たしかに「金子ふみ」の着ている羽織は、冒頭に掲げた文子のそれと同じく、笹の葉を散らせたような、かなり特徴的な模様を示している。表情も、こちらは横を向いてはいるが同じ人間の顔のように見える。やはりこの二枚は、同時期に撮影された同一人物の写真と判断して間違いないだろう。 言うまでもなく、文子が命を絶ったのは1926年、大正末年だ。だからこの時点ですでに彼女はこの世に存在していない。なのにどうして文子が大阪に現れることができるのか。この女性は、たまたま同姓同名の別人というだけなのか。ならばなぜこの写真が、あの大逆罪で死刑判決を受け、23歳で生涯を終えた稀有のアナキストのものとされるようになったのか。そうではないとすると、東京から大阪に出向いた「婦人同盟の金子ふみ」とは、いったいいかなる人物なのか。 とにかく不可解な点ばかりで、ナゾは深まる一方だが、いずれにせよ冒頭の見慣れた肖像は、「朴烈・文子事件」の当事者である金子文子でないということは明らかだと思う。 この件については引き続き探ってみるつもりではいるが、どうしてこれまでの研究者たちはこの初歩的な誤りに気づかなかったのだろうか……。 (画像はどれもクリックすれば拡大します)⇒(vol.2へつづきます)
by dra-wkw
| 2010-05-13 23:34
| 読書
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