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「進工舍」とは
1970年に“点鬼簿”入りした舎主の実父が、生前経営していた家業の屋号。
戦前につくられた木造二階建て家屋を改装して、50年代前半に創業。事業の最盛期には、本業とはまったく無縁の、名も無き「アナキスト」の活動拠点としても、多くの人間が出入りしていた。 両親没後は、曲折をへて住む人もないまま放置されていたが、今世紀に入って解体・撤去されついに消失。 このブログは、今はないこの舎(やど)を通り過ぎた人びとを偲びつつ、「新たなアナキズム」の可能性について、極私的につづるもの。 (なお、「舎」ではなく「舍」が正式名称) (最新記事の表示は、ページトップのブログタイトルをクリック) ・進工舍・別館もあります。 ・ana_gon(進工舍の次男坊)(舎主のツイッター) ◇舎主おすすめのサイト ・アナキズムFAQ ・アナキズム図書室 幸徳・大杉・啄木 etc. ・「父」 金子文子 『何が私をこうさせたか』(部分) 青空文庫 ・朴烈義士記念館 朴烈とその妻・金子文子を顕彰する韓国の施設(ハングル表記) ・アナキズム文献センター ・竹中英太郎記念館 「英太郎と労」父子の個人資料館 ・リベラル21 ・声なき声の会 ・マガジン9 ・九条の会 ・侵攻社の少年 カテゴリ
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巷にあふれている(というほどでもないが)金子文子の肖像写真。その取り違え問題については、以前このブログでも何回か書いてきた。それに関連して、最近たまたまその存在を知った神戸大学付嘱図書館が、ネット上に公開している「新聞記事文庫」を眺めているうちに、文子の活動していた時期に発行された新聞の中に思いがけない記事があるのを発見した。
というのも、当時、まったく接点はなかったのではないかと思っていた金子文子と鈴木文治が、『大阪朝日新聞』の1923(大正12)年5月2日付紙面で、同じ記事の中に並んで登場していたからだ。主として、その前日の5月1日に行われた関西方面での大々的なメーデーの様子を伝える報道なのだが、東京からの電話による報告として、芝公園で開かれた催しについてもあわせて書かれているのだ。 金子文子研究者として知られた山田昭次氏の著書『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』にも、このときのメーデーに参加していた文子の様子が、『東京朝日』の記事を引用して描かれている。それと内容はほとんど同じなのだが、『大阪朝日』の文章には、表現に微妙な違いもあり、なにより、記事の最後には鈴木文治の名前が出てくるのだ。 かなり詳細なレポートとなっている記事から、東京からの電話伝達によるとされる部分を、山田氏の著書の記述(pp.110-112)に準じてメモしておこう。 東京は参加団体四十 この記事のとおりなら、文子は鈴木文治とともに同じデモ行進に加わっていたのは間違いない。年齢にこそかなり隔たりはあるものの、同時代に生きた二人は、同じ空間にいて互いにすれ違う程度の縁はあったということにもなろうか。 1920年開催の歴史的な第一回メーデーで司会をつとめたこともある、友愛会の鈴木文治。その彼の名が新聞で取りざたされるのは理解できるのだが、社会主義者の女性として文子を名指しするのはどうしてなのか。しかも呼び捨てにして。確かにこのときの文子は同志とともに検束され、一晩、愛宕警察署留置場の住人となってはいるのだが…。やはりもうこの時点で彼女は、当局にも新聞メディアにも、相当にマークされていた“名のある”存在だったのかもしれない。『東京朝日』の紙面は直接確認していないが、そこにも同じように書かれているとすると、当時の文子と鈴木は、はたしてそれを読んだのだろうか。
by dra-wkw
| 2011-10-31 21:19
| アナキズム
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