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「進工舍」とは
1970年に“点鬼簿”入りした舎主の実父が、生前経営していた家業の屋号。
戦前につくられた木造二階建て家屋を改装して、50年代前半に創業。事業の最盛期には、本業とはまったく無縁の、名も無き「アナキスト」の活動拠点としても、多くの人間が出入りしていた。 両親没後は、曲折をへて住む人もないまま放置されていたが、今世紀に入って解体・撤去されついに消失。 このブログは、今はないこの舎(やど)を通り過ぎた人びとを偲びつつ、「新たなアナキズム」の可能性について、極私的につづるもの。 (なお、「舎」ではなく「舍」が正式名称) (最新記事の表示は、ページトップのブログタイトルをクリック) ・進工舍・別館もあります。 ・ana_gon(進工舍の次男坊)(舎主のツイッター) ◇舎主おすすめのサイト ・アナキズムFAQ ・アナキズム図書室 幸徳・大杉・啄木 etc. ・「父」 金子文子 『何が私をこうさせたか』(部分) 青空文庫 ・朴烈義士記念館 朴烈とその妻・金子文子を顕彰する韓国の施設(ハングル表記) ・アナキズム文献センター ・竹中英太郎記念館 「英太郎と労」父子の個人資料館 ・リベラル21 ・声なき声の会 ・マガジン9 ・九条の会 ・侵攻社の少年 カテゴリ
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これまでは、図書館から何度か借り出して読んでいたのだけど、「日本の古本屋」サイトで検索したら、“美本・三巻セット”がもう出ていたのにはビックリ。あわてて注文。
それがきのう届いた。 初版発行から一年も経たないのに、まっさらで新本同様なのが定価の6割とはね。ありがたいけど、なんだか複雑な気分。鶴見センセイやみすず書房には申し訳ないので、せいぜい気合を入れて読まなくちゃ。 申し訳ついでに、そのなかから、やっぱりこれだけは書いておきたい。 初出は、2002年6月。山梨日日新聞に掲載された、以下の書評。短いので全文を紹介。 金子ふみ子 『獄中手記 何が私をこうさせたか』 春秋社・新版(1998年刊。右は、2005年刊行の増補新装版) 【金子文子は、獄中で、自殺する前に、自伝『何が私をこうさせたか』という手記を書き、自分が生きてきたということは、永遠の中に残ると書いた(注①)。 この人は二十四歳。小学校につづけて行くということもなかった。 人が、今生きているということを、そのように感じることは、何かの哲学書を読んで、学習した結果ではない。自分が今ここに生きているということから、そう感じるのだ。 キルケゴールも、そのように感じ、そう書いた。金子文子も、そう書いた。 キルケゴールを読むことを無益なこととは思わない。金子文子の獄中手記を読むときにも、この一行が心に残る。 この人は、彼女の生きた一九〇二年(②)一月二十五日から、自殺した一九二六年七月二十三日のあいだに、その年月に日本国民が手本とした道すじとは、ちがう道すじを生きた。 日本国がとなりの国を併合したとき(③)、日本国民のおおかたは、相手の国の人びとの身になってその痛みを思いやることはなかった。 そのとなりの国に住んで当然のようにいばってくらし、その国の人びとをさげすみ、そこに住みにくくなってこちらに移り住む人をさげすんだ。 そのおなじ年月に、この人は朝鮮に住むときも(④)、日本本土にもどってからも、朝鮮人をさげすまず、朝鮮人を友としてえらんで、共にくらした(⑤)。その友だちが、日本の支配者をにくむとき、日本の支配者に対するその憎しみを共にした。 この人は、その友人とともに天皇の暗殺を試みたことはない。実行の事実がなければ、法治国としては、罰せられるはずはない。しかるにこの人は、友とともにとらえられて、死刑を宣告された。 やがて、天皇のおぼしめしによる赦免のしらせがあったとき、友はそれを受けて、無期の刑を受け入れるが、この人は、赦免のしらせをひきさき、死刑のとりけしをこばみ、獄にもどって自殺した。 この人は鉄人ではない。自分がこわれやすい、志のかたい人間でないことを自覚していた。赦免をうけいれたあとに、しっかり生きてゆくことに自信をもつことができなかった。 やわらかいこころをもたない人がどうして、あの自伝を書くことができただろう。 この人のとなりにおくと、日本の知識人は不見識だ。 自由民権とか、大正デモクラシーとか、東大新人会とか、いろいろ言って、大政翼賛会や大東亜戦争の旗をふって指導者の位置から、それぞれの官庁、裁判所、会社で役所で命令をくだしてきた。 金子文子には、山梨県北都留郡の小袖(現・丹波山村)ですごした日々がたのしかった。そのことを自伝で思い出している。おたがいの助けあいの日々。 誇りたかい彼女のことを、思い出す人は少ない。瀬戸内晴美に『余白の春』という伝記がある。金子ふみ子の『何が私をこうさせたか』をもとに書かれた。 近ごろ、葬式で私は東大教授のまむかいにすわった。「あなたが東大教授の悪口を言うのはあなたがハーヴァードを出ているからではないですか」(⑥)と彼は言った。日本国内で大学順位を信仰しているように、世界でも大学の順位を信じている日本の知識人を私は信じない。 しかし、江戸時代のジョン万次郎の生涯を思い、大正時代の金子文子の生涯を思う時、日本人が、世界各地の人びとに、遺伝子において劣るとは思わない。二人とも小学校さえまともに行っていない。】(第3巻 pp.351-353) (アナゴン注) ① 自伝のあとがき、「手記の後に」のなかに、「間もなく私は、この世から私の存在をかき消されるであろう。しかし一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中に存続するものと私は思っている」とある。 ② 文子は、無籍だったため、出生年は諸説あって必ずしも明確ではないが、1903年が最も妥当と考えられている。 ③ 1910年(明治43年)。日本は韓国を併合し、以後36年間朝鮮全土を植民地とした。 ④ 文子は、数え年10歳(1912年)のときから、父方の叔母の養女として1919年4月までの7年間を朝鮮で暮らす。帰国直前に起こった「三・一独立運動」を目撃し、「他人の事とは思い得ぬほどの感激が胸に湧」いた、と証言している(予審訊問調書)。 ⑤ 夫であり同志でもあった、朴烈(パク・リョル)のこと。 ⑥ 鶴見氏(1922~)は、10代で単身渡米。1942年・ハーヴァード大学哲学科卒。同年、日米交換船で帰国。 ジョン万次郎は、比較的多くの日本人に知られた存在だろうし、関連書もたくさんある。しかし、金子文子を知る人はとても少ない。縁あってこの記事をご覧になった方は、図書館ででもいいので、ぜひ彼女の手記を手にとってほしい。 人間として生まれ、同じ人間のひとりとして、誇るべき人間がそこには確かに立ちあらわれていますから。
by dra-wkw
| 2008-09-09 12:29
| 読書
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