検索
ファン
「進工舍」とは
1970年に“点鬼簿”入りした舎主の実父が、生前経営していた家業の屋号。
戦前につくられた木造二階建て家屋を改装して、50年代前半に創業。事業の最盛期には、本業とはまったく無縁の、名も無き「アナキスト」の活動拠点としても、多くの人間が出入りしていた。 両親没後は、曲折をへて住む人もないまま放置されていたが、今世紀に入って解体・撤去されついに消失。 このブログは、今はないこの舎(やど)を通り過ぎた人びとを偲びつつ、「新たなアナキズム」の可能性について、極私的につづるもの。 (なお、「舎」ではなく「舍」が正式名称) (最新記事の表示は、ページトップのブログタイトルをクリック) ・進工舍・別館もあります。 ・ana_gon(進工舍の次男坊)(舎主のツイッター) ◇舎主おすすめのサイト ・アナキズムFAQ ・アナキズム図書室 幸徳・大杉・啄木 etc. ・「父」 金子文子 『何が私をこうさせたか』(部分) 青空文庫 ・朴烈義士記念館 朴烈とその妻・金子文子を顕彰する韓国の施設(ハングル表記) ・アナキズム文献センター ・竹中英太郎記念館 「英太郎と労」父子の個人資料館 ・リベラル21 ・声なき声の会 ・マガジン9 ・九条の会 ・侵攻社の少年 カテゴリ
タグ
読んだ本(69)
アナキストたち(59) 買った本(58) 繰り言(40) メモ(39) 音楽・映像(38) 読んでいる本(26) 事件(26) 戦争(21) しごと(18) 差別(18) 再読した本(17) 雑誌・新聞(9) 古書(9) 貧困(8) ともだち(6) 追憶(6) 生死(6) 死刑(5) 小さな旅(4) アート(2) 災害(1) 以前の記事
2019年 01月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 その他のジャンル
|
・本田靖春 『不当逮捕』 (岩波現代文庫/講談社文庫)
金子文子と朴烈の「大逆事件」に関しては、いわば狂言回しとして重要な役を演じた人物がいる。 二人の訊問にあたった、立松懐清(たてまつ かねきよ)予審判事だ。この判事の存在なくして、冤罪にひとしい皇太子暗殺計画という大事件との関わりを、若い二人がみずからすすんで認めることなどありえなかったろう。 功名心に駆られた立松は、あらかじめ用意されていたストーリーに文子たちの供述をはめ込んでいったのだろうか。 その立松判事自身が、訊問の合間に、半ば戯れに予審廷で撮影した二人のツーショット写真。それが文子の死後外部に流失し、巡りめぐって北一輝の手に渡り、時の内閣を揺るがす大スキャンダルに発展していく。いわゆる「怪写真事件」だ。 立松はこの事件の責めを負って野に下り、昭和13年6月、若くして肺結核のため世を去ることになる。 彼は、司法官としては型破りなキャラクターだったようで、予審訊問を何度も傍聴したという、文子たちの同志の一人・栗原一男をして、大逆事件は朴烈と立松の“合作”のようなもの、とさえ言わしめている(瀬戸内晴美 『余白の春』)。 この事件と係わる前年(大正11年)に、立松は、二人目の男の子を授かっていた。それが、戦後ほどなくして読売新聞社会部の花形記者となる、立松和博(かずひろ)である。 父親譲りともいえる破天荒な個性の持ち主・和博は、その類いまれな情報収集力を駆使し、次々と特ダネをものにしていく。だが、昭和32年に放った、売春防止法制定に関する贈収賄告発記事が、検察庁内部の主導権争いにからんで名誉毀損を問われ、いきなり、東京高検(!)によって逮捕されてしまう。 この件で読売新聞社は、結果的に和博を見殺しにして事態の収拾を図り、それから5年後、失意のうちに彼は不帰の人となる。 その和博に心酔していて、公私共に付き合いの深かった後輩記者の本田靖春が、この「不当逮捕」事件の全貌を、25年後の1983年に暴いたのが本書だ(初出は『小説現代』に、前年の9月号から連載)。第6回講談社ノンフィクション賞の受賞作でもある。 (←拡大可) この書の存在は、金子文子研究者として名高い山田昭次氏の、『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房:1996年)にある文献目録を繰っていて知った。 本稿冒頭に掲げた書影は岩波現代文庫のものだが、現在はすでに品切れ。しかし、1986年発行の講談社文庫版は今も入手可能だ。 立松和博を論ずるのに、父・懐清の存在を無視して語ることはできず、そして、懐清について振り返るとき、朴烈・金子文子事件もまた、自ずとついてまわることになる。著者もそのことは心得ていて、和博の母、つまり、懐清の妻だった往年のソプラノ歌手・房子への取材を通して、立松懐清の人となりと、朴烈・文子に関する知られざるエピソードを書き留めている。 文子自死の日の、朝まだ明けやらぬ時。立松邸へは奇妙な「訪問者」が……。 大正十五年七月二十二日の午前二時ごろ、房子は人の訪(おとな)う気配にふと目覚めた。暗闇の中でじっと耳をすましていると、隣で眠っているはずの懐清が声を掛けてよこした。この「深夜の訪問者」のエピソードは、瀬戸内晴美の著した『余白の春』にも描かれているが、立松夫妻がその日のうちに栃木支所まで文子の弔いにおもむき、その後も永く追善を欠かさなかったということはこの本を読んではじめて知った。また朴烈も、昭和20年10月27日に出獄してから、懐清亡き後の立松家を訪ねて弔意を示し、故国に帰るまでのあいだ、懐清の毎月の命日にはわざわざ出向いてねんごろに供養していたという。 83年前のきょう3月25日は、朴と文子に死刑判決が下された日。 今となれば、立松判事と二人は、まさに不思議な縁(えにし)によって結ばれていたというほかはない。そういえば、この本を書いた本田靖春(1933-2004)も、旧朝鮮・京城の生まれ。前述のように、読売で記者生活を送った後、作家としても壮烈な人生を闘った末に亡くなっている。
by dra-wkw
| 2009-03-25 05:35
| 読書
|
ファン申請 |
||