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「進工舍」とは
1970年に“点鬼簿”入りした舎主の実父が、生前経営していた家業の屋号。
戦前につくられた木造二階建て家屋を改装して、50年代前半に創業。事業の最盛期には、本業とはまったく無縁の、名も無き「アナキスト」の活動拠点としても、多くの人間が出入りしていた。 両親没後は、曲折をへて住む人もないまま放置されていたが、今世紀に入って解体・撤去されついに消失。 このブログは、今はないこの舎(やど)を通り過ぎた人びとを偲びつつ、「新たなアナキズム」の可能性について、極私的につづるもの。 (なお、「舎」ではなく「舍」が正式名称) (最新記事の表示は、ページトップのブログタイトルをクリック) ・進工舍・別館もあります。 ・ana_gon(進工舍の次男坊)(舎主のツイッター) ◇舎主おすすめのサイト ・アナキズムFAQ ・アナキズム図書室 幸徳・大杉・啄木 etc. ・「父」 金子文子 『何が私をこうさせたか』(部分) 青空文庫 ・朴烈義士記念館 朴烈とその妻・金子文子を顕彰する韓国の施設(ハングル表記) ・アナキズム文献センター ・竹中英太郎記念館 「英太郎と労」父子の個人資料館 ・リベラル21 ・声なき声の会 ・マガジン9 ・九条の会 ・侵攻社の少年 カテゴリ
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あの竹中 労は、『断影 大杉栄』 (ちくま文庫:2000年・絶版)にて「アナキズム」をかく定義する。
(↓ クリックで拡大 ↓) 【アナキストの美は乱調にあり、個別人間の適性と能力の“自由連合”、他者を統制しない寛容を、百家争鳴を留保しつつ組織の基礎に置く。しかも、強固な団結と不退転の闘争に同志を連帯するもの・それは、一人びとりの無私の愛である。報酬感謝を求めず、他者(人民・衆生・郷党といかようにでも言いかえてよい)のために、労を惜しまず命さえ損(す)てて厭わない、人間のやさしさである。】 さらに続けて… 【このような言い方を、甘っちょろい痴人のタワ言と嗤(わら)う連中は・アナキズムに、決して理会できない。諧調の“中央集権”、労働者階級を逆権力に構築して、国家権力にとって替ろうと、「党中央」をヒエラルヒーの頂点に置きその統制を絶対化して、分派の粛正をくりかえす非情の論理に、ボルシェヴィキは堕ちこんでいく。 あるいは敵前で日和り、「多数派工作」に藉口して、革命を裏切るのである。むしろ、やさしさは過激と関わり、非情は妥協を生むパラドクスを、我々は歴史から学ばねばならないのだ。】 (「襤褸の巷」 p.141 初出は、1985年・現代書館・FOR BEGINNERS版・絶版) …とも。 左翼陣営・総崩れの今このとき、竹中の指摘した懸念は、すでに過去のものとして忘れ去ってよいものか。 残念ながら、左右にかかわらずホモゲシュタルト的色彩を帯びがちな集団は、宿命的にその非情の論理から解放されないだろう。ある意味、この国にあってはどの陣営にもついてまわる宿痾(しゅくあ)かもしれない。歴史に学ぶとはそれを知るということではないか。属する組織を簡単には変更できない人間一人ひとりにとって……。 しからば、諧調の“中央集権”とは、そこでの何を意味するか。 ヒエラルヒーの頂点に置かれる「党中央」とは誰を指すのか。 統制の絶対化を目論むボルシェヴィキとは、どの一派のことなのか。 報酬感謝を求め、他者を省みず、労を惜しみ、多数派工作にうつつを抜かす輩は誰か。無私の愛・真のやさしさをたたえた人びとなど、本当にいるのか――。 これらの問いかけが、民衆(人民)の側から、つまり、下から上に向かって常に繰り返されないかぎり、どんな集団も腐敗・堕落から免れることはできまい。さもなければ、民衆は、常に統制への恭順を要求する“ボル”にとって、指導・管理、そして利用・収奪の対象として、十把一からげの奴隷に堕すだけだ。善良ではあっても、従順な物言わぬ思考停止の民衆に、ときに共犯者の汚名を甘受する覚悟はあるか。 いまこそ、「やさしさは過激と関わ」る(これは、必ずしも“直接行動”を煽っているわけではあるまいが)、の意味を噛みしめるべき時ではないか。怒りを忘れた民衆に、「正義」を、弱者・少数者との「共生・連帯」を語る資格はさらさらない。 竹中サンの名言に気圧され、なんだかチカラが入ってしまった…。 この続きは、いずれまたの機会に。
by dra-wkw
| 2008-09-24 11:28
| アナキズム
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